オヤヂのプロフィール


○ 出生  福島県いわき市平

○ おやぢの原風景  戦後の色がまだ残っていた、1960年生まれ。
現在の年齢を考えると、生まれた年は、戦後たった15年しか立っていなかった時代。

身の回りに「戦後」のかけらがごろごろしていた。
いわゆる昭和初期の面影がまだ残っていた、高度成長直前の時代でもある。
生活の中心であった自宅のすぐ近くに、小川、田んぼ、あぜ道があった。
そこに生息する各種生物たち、とんぼ、おたまじゃくし、ザリガニ。

遊ぶもの、生活に関する各種アイテムがあった。
爆竹、2B弾、みやこ昆布、手回しの氷かき機。

家電製品が発展。
扇風機、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ、カラーテレビ(白黒のアニメ、カラーのウルトラマン)。
遊び道具もめんこ、びーだま、などなど。

その後の昭和40年代高度経済成長局面で、それら古き良き「日本の風物」は一掃されてしまった。

少年期には、爆竹でプラモを破壊し、戦車プラモを家の中で燃やし、家の中をすすだらけにしていたいたずら小僧であった。

2B弾
これは、マッチ箱のやすりで容易に着火することが出来た。
ポケットに入れていて、ころんだ拍子に爆発する事故 などが多発し、発売禁止になった。

・ターニングポイント。

○アニメ宇宙戦艦ヤマト。(福島では裏番組が「宇宙猿人ゴリ」であった。)  
同年齢のエバンゲリオンの庵野監督も、人生の転機なったといっていた番組。
彼はこのアニメに触れなかったら、アニメの世界には踏み 込まなかった、と言っていた。

私も同様である。
松本零治氏の画がスタジオぬえの手によって、動画としてわれわれの目の前に登場したあのショックは、 今でも強烈に残っている。
特にショックカノン砲が標的に向かって旋回しつつ、3本の砲身をまるで生きている指のように波打たせる姿は、これまでのアニメにはなかった新たな流れを感じることが出来た。

○AM深夜放送
小学生のころに聞いていた深夜放送の内容はほとんど忘れたが、夜更かししてはあの独特の世界に所属する不思議な共有意識の中に身を投じた。
中学生になり、内容が少しわかるようになった。   オールナイトニッポン、セイヤング、パックインミュージックなどの深夜放送を聞くことが密かなステータスの時代。
私の住んでいた地域は、深夜1時でローカル放送終了となって深夜放送はやっていなかった時代。
ニッポン放送、文化放送、TBS放送など本局放送を中国朝鮮の妨害プロパガンダ放送をかいくぐって聞いていたものだ。

安いトランジスタラジオで、深夜、近くの小高い丘の上に登って遠方局の深夜放送を聞いていたこともあった。
現在でいう深夜徘徊になるのか?
高感度ラジオを入手してからは出かけなくても良くなったが。

パックインミュージック 
カメカメパック
ナッチャコパック
イッケイパック 
愛川欣也キンキンケロンパ

愛川欣也きんきんパック(1971年〜)のころ学生運動が盛り上がっており、学生からの投稿が相次いでいた。
小学生だった私は、意味も分からず時代のうねりを感じていたものだ。
愛川欣也は、のちに深夜方法のあれこれをまとめたじんじろげの詩(1972年)という本を上梓。

セイヤング 落合恵子 恋愛カリスマ

オールナイトニッポン  あのねのね(時代はあとだね)  中島みゆき  吉田拓郎  谷村しんじ  ばんばん
土曜の鶴光のオールナイトニッポンでは、女声の鶴光にち〇ぽを握ってしまったのは自分だけじゃなかったのは後から知った。

などなど 
不思議な情熱的時間は確かに存在していた。  


○アイドルの時代    時代はマスコミが作り出す偶像=アイドルの時代になっていった。
キャンディーズ、アグネス・ラム、紺野美砂子、宮崎美子、などなど。  

GORO
GOROをバイブルとして読みふけった。
セクシー(漫画、グラビア)、人生うんちく、科学、軍事情報など、今で言う、情報誌の走りの雑誌だった。

〇プラモデル  
近くに飯島ホビーという模型屋があり、5歳の頃から入り浸っていた。  
プラモつくりに熱中し、もしかするとプラモデルで身を立てられるかも知れない、と思った中学生時代。  

○映画館
近くに映画館があった。  
祖母が映画が好きで、おそらく2歳のころから怪獣映画SF映画に連れて行かれていた。
2つ上に兄がいたので、兄が4つの頃から一緒に連れていかれてと思う。 おばあちゃんありがとうございました。

兄はほとんど覚えていないと言う。  

1964年4歳の頃、宇宙大怪獣ドゴラを東宝系の民衆劇場で見た。
怖くて椅子の下に潜り込んで泣いていたのを強烈に覚えている。
おそらく キングコング対ゴジラ(1962年)もほとんど覚えていないが見ていたはず。  
1964年は、他にも怪獣映画が上映されており、おやぢのSF脳みその養生が始まっていたのだった。
モスゴジ同年4月、3大怪獣地球最大の決戦 同年12月。

近くにという映画館の立地

大人の歩って3分のところに 聚楽館  1973年1-3月頃火災消失。
同 4分 民衆劇場 1960年代で閉鎖(紺屋町)
同 3分 三夜東映   同 5分 ひかり座 1980年代閉鎖
同 5分 日活上映館 駅前
同 5分 松竹・大映系上映館 駅前  平新東宝→ニュー東映→ニュー国際→名画座 (南町)→世界館
同 6分 平松竹座(白銀町、S30年。行った記憶がない。)→世界館
同 5分 平ニュース館(3町目にあったらしいが行った覚えはない)  
1972年ころに、平駅前に、東宝、日活、松竹、大映、洋画などを上映する世界館ビルがS44年8月竣工。
今でいう集合映 画館の始まり。
(参考 いわきの映画館)  

○大学生時代
金欠と自由の日々。
時間はあるが金はなかった。
プラモデルは、作るに作れず、くう、寝る、着る(衣食住)が満たされた上でしかできない趣味だと痛感した。

○ ラグビー
 1975年高校入学時からラグビーをはじめ、現在にいたる。
 2017年現役登録にこだわりがなくなる。ラグビー歴42年目のこと。
 2018年現役登録を終える。


○ SF

映画

 「宇宙大怪獣ドゴラ」1964年公開。怖くて椅子の下に潜り込み見ていられなかった。
 民衆劇場。

 「サンダーバーズ アー ゴー」(ゼロX号が出てくる劇場版。米国は1966年公開だが日本は1967年公開) も1967年夏休みの登校日をサボって一人で見に行った。
 聚楽館。

 「2001年宇宙の旅」1969年は、一人で見に行った。
 聚楽館。

 「スターウオーズ」1978年 高校夏季講習をさぼって一日映画館で連続3回見ていた。昔は入替などなかった。
 ひかり座。
 スターウオーズもアメリカでは1977年公開だったが、日本公開は、おもちゃその他のプロモーションのために1年ずれ込み1978年夏の公開となった。

 小説
 高校の頃、SF小説にはまる。
 平井和正のウルフイガイシリーズ、E.E.スミスのレンズマンシリーズなど。
 
 SF研究会
 1980年大学SF研究会入会。
 映画、機関紙「スタッフ」等製作。
 原付バイクを乗り始める。


○ プラモデル
  幼稚園の1965年ころから近くの「たいら模型店」(いいじまホビー)へ暇があれば入り浸っていた。
 小学校のころの誕生日プレゼントに買ってもらったゼロ-X号1200円。
 「サンダーバード秘密基地」は高くて却下されていた。
 中学・高校。 他の模型販売店(近隣の大黒屋デパート内キディランド、町中の「ひこう船」模型店)の展示品を製作していた。
 大学 生活するのに忙しく、模型をほとんど作っていない。
 結婚してから 一分の一フィギュアを3体も製作したため、模型製作から遠ざかっている。
 1999年「アーマーモデリング」という戦車模型専門誌が発刊され、模型熱が再び燃え上がった。
 仕事が忙しく、パソコン、映画、音楽など他の趣味が忙しく、プラモは買うだけ、になってしまっている。